われら六稜人【第32回】右脳と左脳のホイールバランス


欧州デザインスタジオにて(1999)
SHOW CAR “KAI” クレイモデル

5速
アジアカー

    それでですね、’93年に帰ってきたでしょう。その時の部長さんが「お前、ちょっとアジアの仕事やったらどうか」と。いすゞはインドネシアでアジアカーと いうのをやってて、販売台数が結構あるんですよ。そのフルモデルチェンジをやらんかという話が来て。それまであまりアジアって興味なかったんだけど、そこ で始めたんです。アジアっていったことあります?僕、インドネシアすごく気に入りましてね。そのころ、いすゞはだんだん乗用車が弱くなってきたのかな。商業車とかが中心になってたので、アジアでは非常に 強かったんですよ。行ってみると新鮮な驚きが結構あるんですよね。それまでアメリカ、ヨーロッパの価値観で物事見てたから、アジアのものの見方というか、 違う世界を見て、私としては目から鱗というのが結構あってね、楽しかったですよ。
    「アジアカー」という言葉自体だいたい差別的な響きがあるでしょう。アジアだからこんなもんでいい、みたいな。日本じゃサニーとかカローラなんてもうその 辺で下駄履きで乗られてる車でしょう。ところが行ったらとんでもない。東南アジアに行くと車がすごく大事にされてる。車というもののステータス、というよ りもいかに彼らが車に対して情熱をそそいでいるのか、それがよくわかったわけ。

    カローラ、サニーが…いすゞのアジアカーもそうなんだけど、それをきれいに。下品じゃなくてセンス良くね。暗めのメタリックペイントのボディカラー塗っ て、アルミホイールつけて、窓はプライバシーガラスにして、内装もきれいに凝って、お金持ちの人は運転手さん使ってるわけですよ。そういうアジアカーと呼 ばれてるやつを誇らしげにね。それでホテルとかに颯爽と乗りつけるんです。バスやトラックはぼろんぼろんのが走ってるんだけど、乗用車やアジアカーなんて いうのがそういう使い方されてて、みなさんからあこがれになってるんですよ。こういう使い方してんのかと。すごくびっくりしたんですよ。

    車に対する、デザインに対する思い入れが深まったんですね。そうね、車のデザインに対してなんとなく情熱を失ってたのかな。なんか一通りこなしたという感 じで、自分にとって次の目標というものが明快じゃなかった時期なんですよ。それがアジアに行くことによって、これは一生懸命やらなくちゃいけないなと思っ て、でやっとったんですね。
    アジアは近いから、駐在じゃなくて月に1回とか2回出張。行ったり来たりして。私にとってはアメリカ、ヨーロッパときて、最後にアジアだったんだけどすっかり東南アジアが好きになって、非常に新鮮なアジア体験をさせてもらいましたね。

    それで’97年にもう1回アメリカに行くんですよ。ロサンゼルスに、アメリカいすゞという販売会社の商品企画担当のバイス・プレジデントとして。デザイン から離れるのは寂しかったんだけど、そういう機会もあんまりないし、少なくともVPだからそれなりにおもしろいと思って行ったんです。

    販売会社だから宣伝とか販売政策の話だとか商品をどうするかとか、今度はデザインに対して「ああしてください、こうしてください」という要望を出して商品 を受け取る側ね。今までと逆。同じいすゞだからピッチャーとキャッチャー入れ替わったようなもので、敵でも味方でもないんだけど。売る側に立つというこ と、市場側、お客さん側に立つということもよくわかるし、ピッチャーとキャッチャーの違いもよくわかるじゃないですか。それがまたいい勉強でした。


    米国駐在時(いすゞアメリカ)当時の
    トップマネージメントとのパーティ(1998)

    ところが10ヶ月ぐらいで本社のデザイン部長が、ちょっと他の部に転出したんですよ。それで「お前、部長やれ」ということになって、突如「日本に帰って来 い」って話になっちゃって。まあ部長だからそれはそれでやり甲斐あるし、あわてて戻ってきたんですよ。それが’98年4月。

    デザイン部全体で120人くらい。決して小さくはないですよね。いろんな関連とか海外とか入れたら150人くらいかな。ただ部長ぐらいになるとある意味で、ちょっと寂しいものがあるんですよね。
    チームを運営しているマネージャーの上だから、もうデザイナーからみるとふたつ離れているわけね。デザイナーと直接やることもあるんだけれども、あんまり やると間に入ってる人間の立場もなくなるから、これ非常に難しいんですよ。あんまり「ああしろ、こうしろ」と直接言えないから、割と遠慮がでちゃう。さす がに部長になるとデザインの現場から少し離れたなっていう感じがしましたね。逆にね、離れたからこそいろんなこと考え始めたわけです。

    今まで自分がやってた時って夢中だったけれど、なんで日本の車のデザイナーの地位ってこんなに低いのか、給料安いのか、実力評価主義になってなくて年功序 列なのか、とかね。自分が下にいる時からずっと文句を言い続けてきた。課長になってもね、自分の部下で成績を上げたやつに対しても給料を上げてやれないわ けですよ。これだけの事やってんだから給料を上げてやりたいと言っても、バリアがあって全然出来ないんです。それまでずっと不満に思ってたことを、部長に なる、とそういう制度、環境を変えてあげなくちゃいけない立場になるわけです。

    それで今度は社外のセミナーみたいなのあるじゃないですか、家電の人がやってるディスカッションの場とかへ行って、ソニーの部長さんとか松下のデザイン人事の担当の人の話だとか、聞いてるとみんな同じようなこと言ってるんですよ。
    僕も同じように思ってて、これはどうやったら日本のデザインの閉鎖性が打ち破れるか。例えばアートセンターの同級生でクリス・バングルっていうんだけど、 そいつなんかオペルに行ってフィアットに行って、でBMWの部長になったのかな。ヨーロッパにスタジオ作った時、初めてのモデル屋さんのデザインのマネー ジャーやってたやつがボルボの部長なったピーター・ホーバリーとかね、非常に動きがあるんですよ。人の交流も激しいし、まさにマルチカルチャー、マルチナ ショナルにやってるわけ。

    日本をみると日本人ばっかりでやっている。日本のメーカーも海外に拠点持っていて、そういうところではすごくいいデザインやらせるの。自由に、給料も欧米 並みでね。ところがそこにいるマネージャーは日本に帰ってくると、あんまりきれいじゃないオフィスで環境悪いところで、工場の脇みたいな暗いところで安い 給料で、サラリーマン然として作業服来てやってるわけですよ。海外に行けば、カリフォルニアなんか凄いきれいで、日本に帰ってくると、成田に着くとばたっ と日本人て価値観変えちゃうわけです。
    日本だからしようがない。日本だから環境悪くて当り前。日本だから外国人使えない。日本だから給料安い。そういう話、それはやっぱりおかしい。変えなくちゃいけないんじゃないかと思い始めてたんです。

Update : May.23,2000

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