われら六稜人【第32回】右脳と左脳のホイールバランス

Ignition
車大好き少年

    僕は東淀川区で生まれたのですが、中学の時に豊中の桜塚に引っ越したんですよ。子供の頃から車大好きで、車の絵かくことが、これはもう大変好きでありまして、小学校の時から授業の間、先生の話を聞かずにノートの隅っこにこちょこちょ車の、ね、鉛筆で絵を落書きしてました。


    小2の頃。甲山にて
    (1959.10)

    1950年生まれだから小学校の時はもう’60年代で、ぼちぼち日本の車が出てきた頃で、クラウンとか結構走ってたでしょ。タクシーで日野ルノー2CVっ てやつも走ってたな。あとオースチンなんかも。あの頃は日野がルノーで、日産はオースチン。今、日産がルノーって言うのもおかしいですけどね。そういう車 の頃ですよね。ほんと、車好きでしたね。

    その頃車のデザイナーという言葉があったのかどうか覚えてないけど、やっぱりこういう職業に就きたいなと、小学校の頃から、それは間違いなく自分で意識していました!

    中学は豊中一中だけど、新幹線が走ったのがちょうどあの頃。新大阪駅のあたり、宮原操車場ってあったんですよ。あそこへね、汽車とかよく見に行ったりしてた。まあ、勉強の方は普通にしてたというか、特別好きでもなく、趣味でいうと車と鉄道の間行ったりきたりしていました。

    北野の思い出は先生かな。何か変な先生…化学の佐賀さんだっけ、何か訳のわかんない授業やってた人いたじゃないですか。割とひょろっとした人。この人何を教えたがってるのかわからないとか。ああいうユニークな人って覚えてますね。

    2年の終わりぐらい僕はジャズを聴き始めたんですよ。ラジオ聴いたりしてたんですね。それで放送部いうこともあって、文化祭でね、勝手にレコードコンサー トをして、コルトレーンとか割と激しいやつかけていたら、ひとりだけ一生懸命聴いてるやつがいたんです。で、話してたらジャズが好きだということで、それ で仲良くなって、一緒にジャズ聴いたりしたんだけど、途中からそいつはジャズピアノなんか習い初めて、これは私もなんかやらないかんなと思って、僕は突如 コントラバスを買って、ふたりで遊び初めて。彼は僕よりひとつ後輩で、酒井紀司君ていうのですが、残念ながらつい最近癌で亡くなったんです。受験を控えて そんなことやるとか、もうとんでもない事をやるほうで…いざ受験する頃にね、俺はいったい何になりたかったんだろうと、あらためて高校3年にして考えたわ けですよ。担任は浅野さんかな。文系にいたでしょ。大学に行って何やろうという、あんまり強い意志がなかった。で、よく考えてみると、やっぱり自分は車の デザインをやるんだと。でもね、どうやれば車のデザインをやれるかってよくわからなかった。

    それでね、『カーグラフィック』って車の雑誌あるんだけど児玉英雄さんて、今もオペルにいる…日本人で海外に出て活躍した人の草分け…みたいな人がいて、その人が車のイラストレーションを投稿してたり、記事を書いたりしていたわけ。すごい綺麗で大好きだった。その人が多摩美を卒業してオペルに行ったと書いてあったんですよ。
    「なに?多摩美に行くと車のデザイナーになれるのか」そう思ってあわてて捜してね。美術大学だから当然デッサンの試験があるでしょ。それで受験間際、2~3ヶ月前に突如、美術の本とか適当に画材を買ってきて練習したんですよ。

    北野でも美術部とかで美術系の大学に行くやつは結構いたんです。でも僕は「美術」とか一般的なデザインにはあまり興味なくて、「車のデザイン」という非常 にフォーカスがされていた。それで、あまり情報もなかったから何の気なしに多摩美を受けようと思って、誰に相談するわけでもなく、気軽に願書取り寄せ て…。
    通るわけないですよね、そんなもの。当然落ちましたけど。「これはちゃんと予備校に行かないかん」と思って。でもまだしつこくYMCA予備校なんか行って (笑)。美大受けるのにそんな予備校行くやつなんかいないと後でわかったんだけど、普通の受験予備校のほかに美術系の予備校…デッサンの予備校があるで しょ。それは夜の部だったかな…その2つに通って、結局、武蔵美にひっかかったわけです。だいたい土壇場に追い込まれないと物事を真剣に考えない、という 性格はその頃からあったのが、今でもよくわかります。

Update : May.23,2000

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