われら六稜人【第31回】次代に何が遺せるだろうか

第3映写室
偉大なる祖父の存在

    稲畑産業の創業者である稲畑勝太郎は私の祖父に当たります。祖父は若かりし頃、フランスに留学しました。明治10年といいますから…わが国もまだ開国まも なく、外交政策の対立から西南戦争が勃発したりしていた年のことです。留学ということ自体がかなり珍しい時代だったと思います。
    当時、織物が産業の中心であった京都府から初の公式派遣で8名が渡航したそうです。使節の中で最年少だった勝太郎は、リヨン工業学校からリヨン大学と、8年間をフランスで過ごしました。この間に合成染料や染色の技術を勉強したのです。帰国した勝太郎は、まず京都府の染色試験場に入り、そこの所長を務めました。もともと京都府はそれが目的で留学させたのですからね。ひも付きの留学生としては当然の処遇だったのでしょう。
    その後、京都織物という会社に技師長として就職するのですが、上司と意見が合わないことが多かったようで、遂にある日「明日から出社に及ばず」と、クビを宣告されます。辞職というような体裁のいいものではなくて、まさに「馘首」というやつですわ(笑)。


    上京区(西陣)に構えた最初の店鋪

    それで、フランス留学時代のツテを辿って、フランス(サンドニー染料薬品製造会社)から合成染料を直輸入して販売する会社「稲畑染料店」を京都に設立します。明治23年のことです。これが現在の稲畑産業の創立なんですね。
    (その後の稲畑産業の社歴については当社のホームページでご覧下さい)。

    この稲畑勝太郎という祖父が、当時の「国際人」としての使命感からか…手広く活躍した人でして、大正5年には日本染料製造という会社の発起人となり、監査 役に就任します。この会社は合成染料を国産化することを目的に作られたのですが、第一次大戦が風雲急を告げ、これまでほとんどすべてドイツからの輸入に 頼っていた合成染料が輸入停止となったため、順調なスタートを遂げましたが、いざ戦争が終わって再び輸入解禁となると、みるみる業績が悪化してしまうんで すね。それを祖父が引き受けて建て直しますが、昭和19年には住友化学と合併いたしました。
    また、大正11年には大阪商業会議所(編注:昭和2年より商工会議所と改名)の会頭となり、昭和10年頃までずっと会頭職を務めあげました。今でも大阪商工会議所に勝太郎の銅像が建っていますので、機会があればご覧ください(笑)。


    勝太郎の時代から親子3代にわたり
    駐日ポルトガル名誉領事を務める。

    このほか、勝太郎はフランス留学の経験を生かし、フランスはもとよりヨーロッパの各国、トルコ、ロシア、チェコ、エジプトなどの国々とも親交を持ち、各地に日本商品館や貿易協会を設立します。
    さらには大正12年、当時のフランス駐日大使クローデルと日仏文化協会を発足させ、副会長に就任します。この副会長職は親子3代受け継がれ、今は私が務め ています。この日仏文化協会が母体となって、昭和2年に京都に関西日仏会館が設立されます。ここには京都大学の学生などがたくさん集ったそうで、あの湯川 秀樹さんも兄弟で来ていたそうです。

    このように、単なる経済活動にとどまらず、広く民間外交・文化交流の担い手として多くの業績を残した祖父なのですが、最後にもうひとつ…特筆すべきことがあります。日本映画史の祖という一面です。


Update : Apr.23,2000

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