われら六稜人【第29回】レンズに魅せられた男


見事な格子縞を見せる
カセグレン系望遠鏡の主鏡

5等星
ものづくりの基本姿勢

    私がもし、そのまま望遠鏡屋あるいはレンズ屋を開業していたら…それを飯の種にしていたら…とてもじゃないですが、今のように逸品を追求することは出来て いなかったと思います。要は、それを作って従業員に給料を払わなければいけないし、自分の飯の食い扶持に充てなければいけませんからね。「商売」に追われ て「いいもの」は作れないですよ。今でも、私のところには門を叩いてくる人がいますが、それは「ものづくり」において精度を追求する姿勢が今でも私に残っているからだと思います。
    北野時代に作った反射鏡は、1枚の主鏡に4ヶ月、5ヶ月という月日がかけられています。さらに少年の根性(魂)も籠っています。これを経営的にこなすならば、正味1週間で仕上げないと成り立たない。だけど、そんな1週間程度で「いいもの」ができる筈ないですよ。
    非球面を作る…例えばY=Xの二乗であろうが、三乗であろうが…要するに「形さえできれば出荷しちゃえ」ということになりがちなんです。それでも望遠鏡屋 には「望遠鏡屋の使命」があるわけですから…それなりの価格(廉価さ?)は維持する中で、広範な普及に貢献もし、かつ商売としても成り立たないと継続でき ませんからね。

    「ものづくり」と「望遠鏡屋商売」とは本来別のものなんです。モノの精度を高くしようとすれば、どうしても金儲け以外の尺度が必要になります。それは「好きだから」ということに他ならない。
    その仕事が好きだから、ものづくりが好きだから…ということ以外に理由は考えられませんよ。それが苦しみであったり、生活の基であったりすると、なかなかそこから先には行けないと思います。

    昭和49年春、柴島中学で校舎の老朽化にともない改築工事が始まりました。そこで体育館の屋上に設置されていた私の望遠鏡は、17年ぶりに地上に降ろされることになりました。
    その頃、私は大阪府池田土木事務所に勤務しており、難関の第一選抜の昇進をして、嘱望され意気軒昂な絶頂期にありました。縁あって柴島中学天文部の3年下 の後輩と結婚し、長女と長男をもうける平凡な一公務員でした。そんな私のところに柴島中学から望遠鏡を引き取るか否かの相談があったのです。とても愛着のある思い出の作品でしたから、このまま朽ちさせて廃品にするのも惜しかったですし、この望遠鏡と自分との「運命の絆」のようなものを感じて、 私は何とかしてこれを現代に再生できないかと考えました。もちろん、家族のことや老後のことなど…今後の身の振り方も考えましたよ。ただ、中途半端な選択 だけはしたくなかったのです。自分が棺桶に片足を入れた時に「あの時、あれをしておけば良かった…」と後悔する人生だけは送りたくなかった。
    妻の目は平凡なサラリーマンの人生を望んでいるようでしたが、最終的には「あなたの好きな道を選んで下さい」という彼女の一言で心が動きました。結果、も う一度この青春の遺物、残滓である望遠鏡と、自分が人生の時を共にすることを決意したのです。当然、その時すでに…近い将来、勤務先の大阪府を退職するこ とも決意の中に含まれていたように思います。こうして、再び人生は大きく動き出しました。

    早速、大阪府に望遠鏡の青少年への活用を提言するとともに、倒産した近くの鉄工所の機械を一式自宅に運び込み、自宅もそれに合わせて自分の手で日曜大工で 改造、増築しました。実際、その頃までには私にも望遠鏡に対する科学的な知識や考え方がかなり蓄積されていましたので、最先端の光学・機械技術・コン ピューターを採り入れ、まったく新しい光学系に組み替えたのです。
    ニュートン式光学系をカセグレン式光学系に変更して、鏡筒の長さは半分で済むことになりました。平面鏡は凸双曲面に取り替えねばならず、非常に難しい工程でしたが、自宅の庭の小さな工房で、一日の公務を終え帰宅してから毎日コツコツと製作に励みました。

    それで、まず5年がかりで鏡筒の上半分を用いた「IK-4」が完成。マイコンを内蔵しビデオ装置と連動して、一瞬にして見たい星をモニター画面に大写しに できるハイテク望遠鏡へと生まれ変わったのです。これは昭和54年の夏に、能勢町の大阪府青少年野外活動センターの天体観測所へ設置されました。

    残る鏡筒の下半分はさらに3年がかりで「IK-5」となり、太陽エネルギで駆動するカセグレン光学系ビデオ望遠鏡として整備。さらにパソコン内蔵で2500余個の天体の位置を記憶し、自動で見つけだすことのできるハイテク望遠鏡へと再生しました。
    隣接の池田市長さんから「友好都市提携先の中国蘇州市へ」というお話をいただき、池田市日中友好協会の仲立ちにより、昭和57年の夏に揚子江の河口都市・中国悠久3000年の都「蘇州市」へと嫁ぎ、中央大公園・青少年センターへと贈られました。

    こうして、柴島中学で17年間の勤めを果した「IK-1」は2つの望遠鏡へと姿を変え、今も多くの若者たちに利用されています。ちなみに「I」「K」は 「勇」「かほる」…私と妻の頭文字を取ったものです(笑)。良き理解者でありアシスタントでもある妻には、今も感謝の気持ちで一杯です。

    次の作品「IK-6」はこれらを集大成したもので、私の在職中最後の作品となりました。41cm級のカセグレン鏡で、これはオーストラリアへ嫁ぐことにな りました。当時、駐豪大使館で書記官をされていた大阪市の北田勝也氏の提案によるもので、中曽根総理の時にオーストラリア建国200周年記念に科学技術助 成金が拠出され、そこに協力参加したものです。
    郊外の砂丘にキャンベラ青少年天体観測所が あって「IK-6」はそこに収められました。銅板のペナントには私の名前や望遠鏡の由来が記されています。実はこの近くに180センチ級の(岡山の天文台 にあるのと同じタイプの)望遠鏡があるのですが、それよりも精度がいいというお誉めの言葉までいただきました(笑)。もちろん40センチと180センチで すから…望遠鏡の価値は比較になりませんが、部分的に取り出せば断然こちらのほうが性能がいいに決まっています。保証しますよ(笑)。韓国やニュージーランドにも行きました(IK-41,IK-51)。望遠鏡は、私にとって人生最大の道楽でしたね。これでお金儲けをしようなどとは思ったことがありません。趣味の「息抜き」といったところでしょうか(笑)。

Update : Feb.23,2000

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