われら六稜人【第29回】レンズに魅せられた男

4等星
望遠鏡少年の決断

    望遠鏡の設置先について…初めは北野の30cm望遠鏡の再生を考えていました。相当いたんでましたからね。物理の西田先生も各方面にいろいろと御尽力くだ さったようですが、残念ながら北野高校としては予算の目途がつかなかったようです。そんな時、母校の柴島中学の校長先生がその話を聞きつけ「だったら是 非、本校屋上に置いていただこうやないか」ということになって、PTAと折衝して予算を付けてくださったのです。最初は10万円ほどで出来る簡単な架台を考えていたのですが、そのうち果てしなく夢が膨らみ「あの装置も、この機能も…」ということで、結局は本格的な機能を備えた「ニュートン式トロートン型赤道儀反射望遠鏡」に決定しました。
    柴島中学から40万円もの費用をご負担していただきました。当時、家一軒買えるくらいの費用でした(笑)。もちろん私なりに節約はしましたし、作れるものは皆、自力で作りましたよ。鋼材は大阪湾から廃材を取り寄せ、溶接はもちろん旋盤もフライス盤もみな自分で回しました。
    さすがに鏡筒だけは3ミリもある鉄板をローラーで巻いて作るので、鉄工所の人にお任せしましたが、あとの工作物はすべて自分で作りました。そのおかげで…鉄工所にこもる日が多くなって学校の欠席が多くなり、卒業が危うくなったのも事実です(笑)。

    ともかく、そうして直径47センチ、総重量50キロ以上もの鏡筒を作りあげました。今の技術なら…さしずめカーボンファイバー製で「片手で持ち上げられる」程度の軽さなんですがね。反射鏡だけでも30キロくらいはありましたから。
    これが16歳の時、私が高校2年生の頃のことです。

    それからまる1年後の昭和32年12月、念願の望遠鏡がついに柴島中学の屋上に完成しました。総重量は優に1トンを越え、当時わが国で3番目の規模を有す る口径43センチ、トロートン型赤道儀ニュートン式天体反射望遠鏡の誕生です。ファーストライトの深夜の月面の輝きは、補助してくれた後輩の中学生、松山 君とともに、今も目に焼き付いています。

    その後、シャッター付の天体カメラなども開発しました。また、星を見るには日周運動も考慮しないといけない。それでレコードプレーヤーのモーターを使っ て、赤道儀の自動回転装置も考案しました。これは3年生になってから、だったかな。そんなこんなで…毎日が望遠鏡にハマる学生生活が続いていたのです (笑)。


    今も石川さんの工房には、木辺先生の掲載された
    新聞記事が守護札のように貼られている…

    ある日、望遠鏡が完成して間もない頃、私は自分の人生の岐路ともなった著書の作者、木辺先生に実際にお逢いしてみたい…と思うようになりました。技術的な質問もあって、それで滋賀県野洲郡中主町にある錦織寺を訪ねることにしたのです。先生はお住職の白い衣を身にまとわれ、小柄で優しいお顔だちの中に澄んだ眼差しが印象的な人物でした。研磨室で私の苦労話を一通りお聞き下さり、労をねぎらっていただいた後で、こうおっしゃいました。
    「鏡を磨くということは修行の『道』のように奥深いものです。基礎的な技術もある程度必要ですが、それ以上に探求心や応用力、洞察力、また信念、真心といった精魂の部分がさらに必要です。」
    そして、しっかり勉強して、まともに学校を卒業するようにとも言われた(笑)。

    実は、同じことを恩師の西田先生にも言われていました。
    「ようやったな、石川。よう頑張った。だけど、この道で飯は食えんぞ。成績もそんなに良くないし、飯の食い扶持は考えなイカン。ともかく、この学校を卒業することだけ考えなさい。」

    そして私は(当時も北野からは数人しかいなかったのですが)高卒で日本道路公団に就職したのです。大阪市立大学へは夜学で通いました。これは正解でした。無理してこの道で飯を食っていたら、とても今のようなことになっていなかったと思うのです。

Update : Feb.23,2000

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