われら六稜人【第28回】女性公務員の歩んできた道


入庁の年(S45.11)

3号線
就職するということ
-人生の選択としての女性の就職-

    いよいよ阪大を卒業ということになって、さっき言ったように家族が東京にいるので、とりあえずは東京で就職したんですね。就職ということを考えたとき、ま あ、これは今でもある程度同じだと思うのですが、男女差別がないところというと、公務員か教員しか思いつかなかったんですね。教員になるというつもりは全 くなかったんで、まず公務員試験を受けようと思っていました。

    一応、国家公務員試験も受けたんです。二次の面接で、なんか嫌みな質問ばかりされて、こりゃ落ちたなと思いました。それで、東京都にあわ てて願書出したら、案の定、国家公務員試験は落ちていました。東京都の試験は、まあ、今風に言えば楽勝ってとこね。面接も全然違う優しい雰囲気で。でも、 今でも忘れませんが、面接官が「お茶くみできますか?」って聞いてきたんですよ(笑)。それで、「しないとかするとかの問題ではないと思います。自分が飲 みたいときに、人にも入れるのは、それはそれでいいんじゃないですか。でも、それが仕事だって言われたら、やっぱし問題あると思います。」って答えたんで す。まあ、優等生答弁ですよね。
    もちろん、就職したあとに、実際にお茶くみもしました。入れてくれって言われれば、お茶を運んだし、お客さんだなと思ったら、入れましたし、朝のお茶くみだって、ほかの女性たちと、一緒にお茶くみした。当番で洗い物もしましたし・・。


    広報室出版課(S49)

    昭和45年に入庁後、最初に配属されたのは、東京の多摩に花小金井というところがありますが、そこに地方事務所と言うのがあって、各機関が合同で地域行政 の事務を行っていたんです。税務も農業も福祉もなんでも。私は、最初は農協の仕事をしましたね。いまは、あの辺はほとんど宅地化してしまいましたが、当 時、まだまだ農地があり、農地の宅地並課税が問題になっている頃でした。農業共済、狩猟の免許事務、農地の転用関係などいろいろやりました。

    ところが、2年足らずで、制度が変わり本局に戻ることになったんです。で、どこがいいかと言う話になって、今から思えば相 当わがままだったと思うんですが、あれこれ文句をいって、結局外国向けの東京紹介パンフレットをつくったり、外国のお客さんの案内をしたりする外事課とい う部署に行きました。英会話が苦手だったのは困りましたね。で、第二外国語がフランス語だったから、フランス語の印刷物出す仕事なんかしました。


    広報室時代(S49)
    講演会(都庁内)にて取材。この頃、
    女性の参加者は少ない。この時も紅一点。

    でもね、そこで2年4ヶ月ほどいたんですが、語学力だけで仕事をするというか、もっと直裁に言えば、英語だけはできるけど、ほかの仕事はからっきしというような人にはなりたくない、と思って今度は広報室に異動しました。
    この問題は、重要ですね。仕事ができないと言うのは論外だけど、専門職という分野の落とし穴なんですね。専門の仕事はできるけど、その他の必要な仕事については意欲すら持とうとしない。専門職に安住しきっていく。職業のあり方としてよくあるパターンなんですね。


    世論調査担当時代(S54)

    でも、広報の仕事は面白くて、3年ほどいましたね。自分ではもっといるつもりだったんですけど、産休に入ったりして、仕事が充分にできなくなっちゃったん です。まあ、出産は女性にとって普通のことのはずなんですが、それが「宿命論」になるところが、まだまだ男女平等の意味が浅いとおもいますね。でも、寿退 職みたいなことを強要されることもなかったし、産休もとれたから、その点は当時としては公務員は条件がよかったと思いますよ。
    もちろん、現実にはあのころはずいぶん周囲に迷惑をかけたと思うの。子育てやらで、休日出勤や超勤も自由にはできないし。個々の仕事で自信があっても、自分としても仕事が思ったようにやりきれていないなって・・・。ちょっと落ち込んでいましたね。


    国際交流部時代(S59)
    (左)レセプション会場で鈴木都知事と (右)都民の日祝賀会受付で

Update : Jan.23,2000

ログイン