われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯

第8楽章
日本軍の最終兵器

特殊潜行艇「蛟竜」(甲標的丁型)
    海軍対潜学校で1年間…速成士官の養成を受けたあと、第三海上護衛隊に配属されました。東京から大阪に至る、いわゆる太平洋沿岸を航行する船団の護衛がそ の任務です。ちなみに第一海上護衛隊は門司・佐世保から台湾、シンガポールに至るまでの東シナ海の航路を、第二海上護衛隊は東京から伊豆七島、小笠原諸島 を過ぎて、サイパン、マリアナ群島に至る航路を、第四海上護衛隊は東京から千島列島、オホーツク海へ至る航路を、それぞれ航行する船団の護衛が任務でし た。
    つまり、第三海上護衛隊がもっとも日本近海を守備範囲としていて、実際ここが最も危険な海域だったのです。敵潜水艦が三隻ずつ組んで海中に潜んで待ってい たのも多くはこの海域でした。最大の悲劇は世界最大の新造船・航空母艦「信濃」の沈没でした。この7万tの空母は処女航海の日に横須賀を出港して呉に向か う途中、一機も飛ばさず、一砲も撃たず、出港して17時間後に熊野灘沖で米潜水艦「アーチャフィッシュ号」に雷撃・撃沈されました。
    ちなみに日本海が安全とされていたのは、津軽海峡や対馬海峡の海底に防潜網が張り巡らせてあったからで、それには機雷が仕掛けられており、安全に航行通過できる区域はわずか200メートル幅しかなかったからです。ところが昭和19年の12月27日に第三海上護衛隊に赴任して、わずか2ケ月の勤務で翌2月に突然「海軍潜水学校付ヲ命ズ」という転勤命令が届いた。これ が不思議でね…腑に落ちないというか。既に実戦に出て、役に立って働いているというのに、またも教育機関に逆戻りとは…「教育のしなおし」ということで しょ。「海軍潜水学校教官ヲ命ズ」なら分かるけどもね(笑)。「早く来て講習を受けなさい」ということなんだから…。
    ところがね…行ってみるとこれがまた黒山の人だかりで。もうすでに乗船できる船は全部沈められて無かったんですよ。結局ボクも巡洋艦「高尾」には乗れず終 いで特設掃海艇「第三みさご丸」だったんだから(笑)。潜水学校というのは本来なら潜水艦乗りを養成する学校ですよ。ところがもうその頃の日本では潜水艦 そのものが30隻も無かったし、そのうち20隻は漏水甚だしく実用にはならない体たらくだった。だから、そのころ最も力を入れていたのは専ら特殊潜行艇と 人間魚雷だったのです。

    飛行機の連中もそうだった。本来ならゼロ戦に乗って敵機グラマンと大空でやりあうはずだったし、艦上攻撃機で敵艦めがけて魚雷を投下する…という華々しい 活躍を夢見て志願したはずだった。ところが性能比においても、乗員の訓練度の点においても機体の数においても…日本は何歩もアメリカに差をつけられていた し、そればかりか日本の飛行機は行っても行っても、行ったきりで帰ってこない。どうせ帰らないのなら爆弾を抱いてわが身もろとも敵艦に突っ込もうではない か、というのが例の神風特別攻撃隊です。
    われわれはその水中版(笑)。水中特攻隊には特殊潜行艇「蛟竜」と人間魚雷「回天」、それに新設計の「海龍」の三種類があって、それぞれを「甲標的」とか 「マルロク金物」と呼んでいた。ほかに水上特攻隊というのもあって、モーターボートの先っちょに爆薬を附けて高速で敵艦に突っ込む「震洋」(マルヨン艇) とか、爆薬の詰まったドラム缶ごと海底に沈んでおき頭上に敵艦がさしかかったらわが身もろとも爆破するという「伏竜」隊などもあった。今からすると、きわ めて幼稚な「最終兵器」でしたね(笑)。

    ゼロ戦もそうでしたが、要素々々としては日本の科学技術もそんなに捨てたものではなかったのです。機密保持のために「マルロク金物」と呼ばれていた「回 天」も、元は九三式酸素魚雷という優れた日本製兵器でした。通常、他の国の魚雷は圧縮空気で石油を燃やしてスクリューを動かしていたため、走った後にプク プクと水泡が発生して、魚雷の来た道筋が一目瞭然なんですね。これを雷跡といいますが…日本の酸素魚雷は空気の代わりに酸素と水素の混合気体を使っていま したから、反応しても水(H2O)しか生成されないんです。つまり雷跡が出ない。
    この九三式酸素魚雷の内部を真ん中で二つに仕切って、真ん中に人間が乗って操縦する場所を作り、先端に1.6tの炸薬を詰めた(これは相当に多い量で、ど んな船でも当たったら轟沈しますよ…)のが「回天」でした。これを潜水艦に積んで、敵の近くまで行ってから発射するわけです。当時は魚雷には自動追尾装置 なんてなかったですから、事前に察知されて、うまく換わされたらそれでお終いでしたが、この「回天」は…何しろ人間が乗って操縦してるわけですから…絶対 に当たります。恐ろしい兵器ですよ、敵にとってはね(笑)。
    平和な今でこそ、人道的なヒューマニズムの問題としてしか語られませんが、当時、戦争の真っ直中であることを考えれば、勝敗が生死に直結していたわけです からね。ある意味…大変優れた兵器でもあったワケです。ボクらは、その乗員(艇長)としての「最期の」教育を2ケ月間に渡って受けたわけです。それが昭和 20年の3~4月のことでした。

    対潜学校ですでに航海術を習っていたボクは、船を動かすことは得意中の得意だったけど、ほかの配置の人…対空砲術専門の砲術学校出身の人や、陸戦隊専門の 陸戦出身の人など…こういう人たちが余っていたわけです。乗る船が無いからね。それを全部、潜水学校に集めてわずか2ケ月で一人前の艇長としての訓練を受 けさせたわけ。思えば可哀相やったね。その後、第一特別基地隊「Q基地」へ配属(大浦突撃隊大迫支隊というのが正式な名前だったけど…暗号のためにそうい う隠語で呼びあってた)。そこで、自分が乗る潜航艇の出来上がるのを、今か今かと待っていたんです。


    建造中の「蛟竜」(昭和20年秋、米軍撮影)
    終戦時、建造途中の「蛟竜」は約500隻にも
    のぼっていた。材料準備中のものも含めると
    さらに膨大な数に達したという。

    結局、ボクら第14期の艇長は全員で60名おりましたけども、新造船をあてがわれたのは朝倉クンたった一人だった。生産がまったく遅れてましてね(笑)。
    第1期というのは恐らく真珠湾に行った人々でしょう。各期だいたい10人から50人の艇長が輩出されてボクらの一つ前、第13期の人々も50人くらい全員 が艇を貰ってます。ボクらの教官はだいたい第8期くらいの人々で、やはりみんな自分の艇を持ってました。そうやって順次、自分の艇のできるのを待っていた ところで8月15日の終戦を迎えたんです。

Update : Dec.23,1999

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