われら六稜人【第27回】ある音楽家の生涯

第2楽章
音楽に明け暮れた北中時代

    北中に入学しましてね。音楽が好きだったから音楽部へ入ったんですが、兄貴が園芸部だったんで「花作りもええなぁ」ということで園芸部にも入りました。剣 道部も…兄貴の道具が一式ありましたからね。絵も好きだから絵画部。それから文芸研究会にも顔突っ込んで…『六稜』っていう雑誌の投稿編集にも携わりまし た。そんなこんなで…とにかく毎日どっかの部に行かなきゃならなかったので、忙しいのなんの。とても勉強なんかする暇がありませんでした(笑)。
    結局、剣道部は1年ですぐ辞めました。激しくてね。絵画部と園芸部が2年まで。音楽部だけは面白くて最後まで続けましたが…それが生涯の仕事になるとは思ってもみませんでしたよ。

    ともかく成績は悪かったですね。やることが多くて勉強の時間がなかった…というのは言い訳なんだけど(笑)、見事に1年生で落第しましたね。それが厳しい先生で…木村喜逸先生(綽名はインド)。今でも覚えてますよ。
    当時は成績を職員室の横の壁に貼り出すわけです、1番から順番に。ところがナンボ探してもぼくの名前がない。「こら一体どういうことかな」と思って職員室 へ行ったら、木村先生が「野口くん、ちょっと来い」言うてね。「お前は落第だ」って…それで、安藤清二先生(綽名はライオン=獅子)のところへ連れて行か れて「先生、こいつはちっとも勉強せんから、よろしく頼みます」と、わざわざ念を押されて引き継ぎ(笑)。

    当然、2回目の1年生はバツグンの成績でしたよ。そらそうです、同じことを2回やった訳ですから…。壁つきとまではいかなかったけれども、後ろから2列目 ぐらいには座ってました。その時隣にいたのが中江要介君とか、優秀な人ばっかりで…。ボクの真後ろは緒方病院の緒方君(適塾の開祖、緒方洪庵の曾孫にあた る人で、お父上も緒方裕將という名医中に名医でした)。この人は級長にはならなかったけれども、4番以下にもならなかったですね。極めて温厚な紳士で、よ く勉強して、いい友人でした。大阪の名家で、兄弟は3人とも北中の出身でした。緒方正美君が僕らの同級生で53期。緒方病院の院長職を弟に譲って今は緒方 洪庵記念館の館長さんですね。正世君が一年下で54期、一番下の正名君が56期で…今、緒方君の後を継いで同窓会の常任理事をやってるでしょ。3人とも優 秀な秀才でしたね。

    ボクが入学する2年か3年前…昭和7年くらいに音楽部同好会ってのが出来たみたいです。その頃はみなさんハーモニカをお吹きになってたようですが、それで はつまらないから管弦楽団をやろうやないかということになって…。ちょうどボクが入った時には今村忠一さんという方がキャプテンで(今でいう部長兼指揮者 ですが)この人が非常に優秀な方で、級長もやっておられました。恐らく彼がお作りになったのだと思います。彼の1年下には竹内、須古、佐藤、馬澄、檜垣、深尾、永野、飯島など…やはり素晴しい先輩が4年生にずらーっと並んでて、相当程度の高い管弦楽団をやって ました。ちょうどこの年に、あの名校長として有名な江崎誠校長から安達貞太校長への交代劇というのがありまして、体育館で行われたその歓送迎会にもオーケ ストラは出演しましたよ。
    しかし北野中学というのは、生徒もよくできたけれど先生方が素晴らしかったね。学識、人格ともに立派な先生ばかりでした。安達校長のおっしゃった言葉に「先生の欠員ができた時には全国から良い先生を探した…」云々と言われたのをハッキリと覚えています。


    左から伊藤順造、森信重幸、戸咲金三、田村芳朗

    それからその下は…3年生と2年生の部員がいなくて、1年生がボクと伊藤君、森信君、戸咲君、田村君。この4名がクラスメイトで「いっしょに入ろうや」ということになった。

    さて、喜び勇んで入部したけれども、ボクはホルンがやりたくて先輩にそう言ったら「君の顔はバイオリン向きや。あ、田村くん…君はホルンがいいな」そういうことで配置を決められました(笑)。
    それで当時、ボクは学校にあった鈴木バイオリンの安物を弾いてましたけど…ハーモニカ楽団をやめてオーケストラをつくろう…と言い出した時に、当時の校長 や先生方が偉かったのですね。既に学校にあった楽器というのが、バイオリンが6つ、ビオラが4つ、セロが2つ、それからコントラバスが1つ。ピッコロ、フ ルートが1本、クラリネットが2本、トランペットが2本、トロンボーンが2本、フレンチホルンが1本、そんな感じでした。他に打楽器もいろいろあった。カ スタネットもあったし…結構いろんな楽器がありましたよ。
    それだけの楽器を揃えるのに当時のお金で2,000円ぐらい要ったと思うんですね。フレンチホルンが100円、トランペットが35円ぐらい、バイオリンが だいたい8~10円の時代ですからね。だから、まぁ2,000円はオーバーとしても、最低1,000円は要ったと思うんです。それだけのお金を誰が工面し たのか。

    クラブで一番たくさんお金を貰えたのは野球部です。900円ぐらいだったかな。ラグビー部が600円ぐらいで…音楽部はゼロです。まだ音楽部は独立した 「部」ではなく、学芸部の一部門の同好会的な存在だったから、学校から支給される部費は無かった。その時代に、それだけの楽器を買ってくれたのは誰か?と いうことになる。
    ボクはやっぱり江崎校長が特別な予算を組んでくれたものと想像しています。たとえ一管編成にしろ…それだけの楽器を一度に揃えてくれた先生の英断は…当時 としては偉かったと思いますよ。ボクはこの費用を誰が出してくれたのか極めて疑問で、しかも重大なことだと思う…と音楽部70年誌に向けて書いたのだけ ど、出版そのものの企画を後輩に委譲してしまって原稿はそのままお蔵入りしています(笑)。

    とにかく、当時としては堂々たる管弦楽団でした。

Update : Dec.23,1999

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