われら六稜人【第26回】科学を志す人のために

第3研究室
握り飯より柿の種?

    阪大で一番良かったのは、その当時「業室研究制度」という制度があったことです。これは、学生をまあ準教室員みたいな格好で、教室へ入れてくれて、セミ ナールに出してくれたり、実験の手伝いをさせてくれたり、一緒にコンパに誘ってくれたりするのです。私はこれが非常に好きで、阪大ではそのプロセスを経 て、将来その教室へ入っていった学生が非常に多いのです。後に京大でもそれと同じようなことをして、学生さんに「夏休みとか放課後に来て、一緒に研究を見 習え」とか「一緒にセミナールに出ろ」とか言うと、学生さんもよく来てくれたものです。そういう制度があって、私は谷口腆二先生という微生物研究所(微研)の所長をしておられた先生の教室に入った。一緒に阪大に入った多くの友人は、古武弥四 郎先生という大先生の教室のほうに入りました。この古武先生は…日本の「生化学の権威」のような方でしたが、この先生の講義が全然面白く無い(笑)。
    立て板に水を流すように、ドイツ語と日本語をず~と黒板に書いていかれて、コッチはただそれを一生懸命になってノートしているばっかり。全然わけも解らん し面白くない。それでも優秀な人はみな古武先生の教室に入ってしまうので、私は「こりゃダメだ」と思って谷口先生の教室を選んだのです

    卒業と同時に第2次大戦の最中で…海軍に行き、軍医として3年間ご奉公しました。幸い、無事帰ってきたら、私の住んでいた家も大阪の町も全部、焼野原になってました。阪大は何とか残っていましたし、北野も爆撃ではほとんど損害が無かったようですがね。
    それで、とにかく阪大へ行って、谷口先生に「もう自分の家も焼けたし、何より両親は宮津の郷里に疎開して田舎で細々と開業しとる。これから帰って親父の手伝いでもします…」そう、挨拶に伺ったのです。

    その時、谷口先生はこう言われました。

    「日本はこの戦争に負けたけれども、これから10年20年30年…とかけて日本を再建せなならん。それは君ら、若いもんの責任と違うか?」
    そら、確かにそうやけれど、食べるものはないし、住む家も無い。水道も電気も無いような時代ですからね。「えぇ、ゆっくり考えてみます」そう、お茶を濁して「さよなら」する心算で帰ろうとしたら、先生が「いや、君。しかしね…」

    「医学はこれから基礎からやり直さんといかん。アメリカの医学は、この戦時中にものすごく進歩した。日本の医学は全く進歩していない。もういっぺん基礎からやり直さないといかんのだ。君は幸い命拾いして帰ってきたんだから…もういっぺん基礎医学をやりなさい。」
    「『基礎医学』をやるのは結構ですけどね。しかし、こんなお金もないし、食べるものもないのに、医学を続けることはできませんよ。故郷へ帰ります…」そしたら谷口先生…ぼつりとこう仰いました。
    「早石君。君は『握り飯より柿の種』というのを知っているか」

    「何ですか、それは」私が矢継ぎ早に聞くと、先生は「腹が減っている時に、握り飯を食べたら美味しいし、お腹も一杯になるだろう。しかし、それだけや。柿 の種を土の中に植えたら、1年2年3年4年と…だんだんだんだん大きくなって、何年か経ったら柿が一杯実るようになる。大きな木になって沢山の実が実るわ けや。君はまだ若いんだから…あまり近視眼的に物事を決断するのではなくて、将来のことを見据えてもういっぺん考え直せ」と言われたのです。今から冷静に 考えたら、あまり合理的な話ではないと思いますけどね(笑)。

    だけど、その時…私はまだ25歳くらいだったかな。早生れで、北野を四修で終えて、医学部を3年半で終わったので…22歳で大学を出て、25歳で戦争から 帰ってきたわけです。まだ「生真面目」というか「世間知らず」でしたからね(笑)…この先生の口説き文句に、巧い具合にコロッと騙くらかされてね。
    「そうですか…そういうもんですか…それじゃあ、やりましょうか…」

    結局、こうして阪大の微研で研究を始めることになりました。ですから、ちゃんとした理由もないし、いい加減なものなんです。よく、あんな事で一生を決めたと思うんですがね(笑)。

Update : Nov.23,1999

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