われら六稜人【第23回】琉球の大地に生きて

第2畝
農業人への回帰

    日本復帰当時、沖縄の所得は日本の平均所得の6割程度でした。ところが名護の助役をしていた岸本建男という人が「沖縄のほうが豊かである」と言ったので す。「豊かな大地があって、豊かな海に囲まれ、空気も澄んでいる。昔からの伝統的な生き方がある。したがって沖縄のほうが豊かなのだ」と。そういう意見を 行政に問題提起して、しかもそれが議会を通った。私はその言葉に惹かれて名護に住むようになりました。今から25年前のことです。「逆格差論」といって…沖縄でも地域開発を推進して、日本の平均所得に追いつこうと考える一般論に真っ向から対峙する逆の意見でした。私はそれに賛同して、この地で農業をやっていこうと決意したのです。

    岸本さんは現在、名護の市長をしています。2年近く前に「海上ヘリポート建設問題」が浮上した際、市民投票の結果「基地拒否」という結論が出たにも関わら ず、前市長はそれを無視して「基地受け入れ」の態度を表明してしまったのです。その後、前市長は辞職。助役だった岸本さんが市長に押し上げられたわけで す。

    名護の発展を考えるとき、次の2つの意見があります。
    ・基地を受け入れて、政府主導型の発展
    ・基地を拒否し、自力で伝統や自然を活かしながらの発展
    対極的な2つの意見があって、それぞれの意見で“発展”を考えています。

    岸本市長も基地を誘致する立場ですから…私は、かつて私を魅了し、受け入れてくれた現市長の彼とは対立する立場になってしまいました。

    その昔、この大湿帯にも集落があったのです。ところが私たちが来た頃には、ほとんどが廃屋でそれも朽ち果てていました。みんな町へ出ていってしまい、老人 が一人…出そびれて住んでいるだけでした。水は豊かにあり土地も安かったので私たちはここを生活の地に選びました。長女の杉子がまだ3~4歳の頃です。同 じ頃、隣にマンゴーの栽培を志す人が住み始め、それから徐々にここを選んで住む人たちが増えて行ったのです。大湿帯を選んで生きる人たちの共通点は、農業で生計をたてる自給自足型であることです。有機農業をやり、土をこねて焼き物を作り、衣類・生活資材は天然素 材のものを自分の手で作る…自分たちが食べるための農業、自分たちが生きるための工芸をやっていました。長い間…みんな、それぞれ勝手にやっていたのです が、しばらく経ってお互いの共通点を見出すようになって、大湿帯で工芸村を作ろうという動きになりました。

    沖縄でも那覇や島中部はコンクリートで覆われています。ですから、子供が自然を体験できるのは島北部=この山原しかありません。この豊かな大地で、伝統と 自然を守ることを子供たちに教えていこうと考えたのです。ですから最初は、そういった伝統工芸の体験ができる場を提供していこうと思い、粘土をこねて焼き 物を作ったり、草木染めをやっていました。初めから藍染めを考えていたわけではありません。ところが、いざ藍染めを始めてみると…周囲におだてられた所為 もありますが(笑)…実際に、大変希少価値のあるもので、私たちが辞めてしまったらもう伝えていく人がいない…というので辞めるわけに行かなくなったとい う要素もあります。

Update : Aug.23,1999

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