われら六稜人【第22回】ヤマに憑かれた放浪人生

※プリンスオラフ沿岸を
犬ぞり旅行中のボクと
西堀隊長。暖かい1日。

-10℃
南極越冬隊秘話
【前編】

    そういうマナスルの一件があって、そこへ今度は南極行きの話が持ち上がるんです。隊長はもう決まっていた。永田先生という地球物理の学者。それで、副隊長 に登山の専門家が必要とされたわけです。今はそんなことあんまり言いませんけどね。当時はやっぱり危ないと思われてたんでしょうね。
    それで日本山岳会に正式に推薦の打診があった。日本でこういう事のできる一流の登山家を紹介してくれ、と。そうして西堀さんに白羽の矢が当たったわけで す。この人がまた、ものすごい凝りに凝るんですよね。ボクはいろんな人のなかで彼には非常に好かれたといいますかね。西堀さんの気持ちというのがあって。 ボクもかなり彼に影響を受けましたよ。ボクは南極に行ったのは最初の一回だけです。西堀さんも同じ。彼はその後もずっと役員をしてましたけどね。私は2年半くらいで辞めてしまいました。大阪人と東京人の違いというか…文部省のお役人とは付き合ってられないですよね、正直のところ(笑)。
    決して悪い奴じゃないんですけど。言うことが本当に四角四面で堅いというか…信じられないことを言い出すからね。南極に行くのに一番良いカメラを持って行 くのは当たり前の事であってね。値段も決まってるのに「このカメラを買うためには三社の相見積もりが必要です」ってね。「今から取りに行くんですか?」 「そうだ」って。
    今年の暮れには出発するってキリキリ舞いしてさ、寝る時間も無いってのにね(笑)。

    もう日本光学(ニコン)とは話が済んでて…手袋をはめてても押せるように、シャッターを若干高くしてもらう特注品をね。それだけで何百万か…ニコンとしては大喜びでね。「良いですよ、何とかつくりましょう」って話はついてるの。
    それを文部省に買うって言ったらね「少なくとも二社分の書類がなかったら許可が出せない」って。じゃ、オリンパスとかに行って「あんたんところの使わない んだけど、書いてくれんか」って…普通、そうは言えないでしょ。そんな無茶苦茶なこと言うんです、文部省っていうのは(笑)。

    結局ね、第一次越冬隊というものには文部省の予算は使ってないんです。というのも越冬するかしないかっていうことがギリギリまで判らなかったんです。最後 になってやっと越冬ができることになって…だから予算という措置はできていなかった。朝日新聞が集めてくれたお金を使ったわけです。第一次越冬隊のベット を買うだとか、越冬のための物品ってのはね。

    ※オラフ海氷上を行く犬ぞり。

    犬ぞりもそうなんですけど…ボクが「やる」と言って文部省に掛け合いに行ったんです。そしたら「犬ぞりって何ですか?」って。何ですかっていわれても困る けどね。「あんた、やったことあるんですか?」「やったことはないです」「専門家なんですか?」「いやぁ分かりませんねん」って(笑)。予算っていうのは どこも学会を通じて出してもらうことになってるそうなんだけども「じゃあ、犬ぞり学会ってのはあるんですか?」って。その人とは後世に逢って大笑いしたけ どね。
    無茶苦茶やね、んなもん。やった事がないから、それをやりたいから行くんであってね。「やったことがないものには金は出せない」って言われたらしようがない。

    この犬ぞりの費用が600万円。今でいうと6,000万円はあるかな。やっぱり使いでがありましたよ。それを一人でやる。犬の選定から設計から道具から計画から、すべてね。そら、寝てる暇はなかった。
    おまけに、これだけじゃなしに…当時35歳だったですから、一番使われ時ですよね。文部省に泊まり込みで、朝から会議、昼も会議…。会議をやるということ は、必ず配布資料が付いて回るでしょ。これを、翌朝までに作っとかなきゃいけない。今みたいにワープロがあって、プリンターでさっと印刷できる時代じゃな いですよ。夜中にガリバンで刷ってね。
    当時、女の子の手伝いの人もいたけど…そんな人に任せられないですよ。だって会議に出てないから、何の事だか全然わからない。出席してる担当者が自分自身で作らざるを得ないの、翌日の資料というのはね。結局、そんな事に明け暮れるわけですよ(笑)。

    その当時ね、文部技官(文部省の職員)にならないと南極に行けなかったんです。今でもそうですけどね。文部省の管轄になったということは、日本としては良い選択だったのか悪い選択だったのか分からないですね。
    今でも文部省でなかったら南極の昭和基地に行けないんですよ。建設省の人ではダメ。大学関係、文部省の…おまけに大学学術局を通じないと行けないんです。日本は、完全な縦社会だからね。

    そもそもどうして文部省になったかというとね。たぶん、文部省に一番最初に話を持っていったのは朝日新聞だと思うんですよね。朝日新聞にはその当時、藤木 九三【ふじき・きゅうぞう】っていう有名な登山家がいたんですよ。山登りする人なら皆知ってる。朝日新聞の古株でね。昔から本とか書いてはる人で。
    その人が鳴尾小学校のボクの同級生、藤木高嶺の親父さんだった。甲子園に住んでて…ボクも子供のころ何度か藤木さんの家に遊びに行ったことがあって、いろんな山の話を聞きました。
    それで、南極の話がでてきた時に「南極の部屋」研究室を、朝日新聞が社内に作ったわけ。その担当者に来ないか、というハナシがあって…ボクともう一人、早 稲田山岳部のOBでボクと同年配のアイダくん…今どうされてるか知りませんが…に声がかかった。結局、アイダくんが行くことになってボクは地質調査所に 残ったわけだけど。

    その頃、朝日新聞が「学術会議」の存在に気がついたんですね。日本の大学の先生達で作っている、日本の大学行政をどういう風にやれば良いかということを考 える全国会議。これの会長を茅誠司【かや・せいじ】先生ってのがやってたんです。当時、東大の学長だったかな。この茅さんが実は私の北大の時の物理の先生 で、しかも北大山岳部の部長も兼任されていた。それで一緒にスキーとかもしたことがあるんです。
    その茅先生が、ある日ボクに電話をかけてきて「やぁ、菊池君。久しぶり」って。ボクが朝日新聞に出入りして南極がらみで何かワァワァやってる…ってことを、東大の地質学の先生でボクの先輩の久野さんに聞いたんじゃないかな。この先生も登山が好きな人でね。
    「あぁ、茅先生っ!お元気ですか」そしたら「○月×日に学術会議で講演をするから聞きに来い」ってことになってね。行きましたよ。

    学術会議で茅先生、南極の話を滔々とするんですよ。世界の状況はこうだ、日本の大学の先生も行こうと思っている。けれども資金がなくて行けない…それを朝日新聞が援助しようとしてる、とね。
    この際、新聞社だとか何とか言ってはおれん「日本の学者が南極へ行くいい機会であるから、この援助を受けて行くべきだと思う」そういう講演を2時間ぐらい ブツんですよ。ものすごい資料をならべてね。やっぱり学者やね。ボクはその当時、自分が一番南極のことを知ってると思ってた。よく勉強してたからね。でも 先生はそれ以上にものすごく知ってはるのね。いやぁ、凄いなあと感心してね。

    それで、学術会議の参加者が二百何十人かいたんですが、皆に問うわけです。「どう思いますか、みなさん」って。だけど、日本の会議って「どうですか」って言っても誰も何もいわないのが普通だよね。シーンとしちゃってさ(笑)。
    会長の先生が言うんだもんね。「反対の意見はありませんか」って何度も口うるさく尋ねるんだけど、ところがみんな黙ってるわけ。念をおして何べん聞いても発言はないし。「本当に、反対の方がいなければやることにしましょう」って。それでやることになったんでよ。

    これ現在でも記録に残ってますけどね。「茅決定」って呼んでますが(笑)。この茅決定が無かったら、あれ以上前には進んでなかったと思う。茅さんが学術会 議でやることを決めたんです。これ…茅さんまったく個人ですよ。一人。日本山岳会も誰も関知してない。後で隊長になる永田さん自身ですら関知してなかっ た。
    それで学術会議が南極をやることになり…茅さん本当は自分も行きたかったんだろうけど、結局行かなかった(笑)。推進本部長になってましたけどね。副本部長だったかな。

    それで茅さん、すぐに文部大臣のところに行ってね。当時、松村さんだったっかな…その時の文部大臣が非常にそういうことが好きな人でね。「それは面白い。 絶対、日本でやるべきだ」と言ってね。「よし、俺に任せておけ」と言って予算がついたんです。茅さんと文部大臣が推して、学術会議が予算をつくって…追加 予算を申請したのが8月ぐらいで、次の年の5月にはもう予算が実効してました。それが8億円。今で言うと80億の価値はあるのかな。

    ※宗谷甲板で無線機のテストをするボク。

    ちょうどその頃ボクはね。人形峠で発見されたウランのことで頭が一杯で、仕事もそっちのほうにかかりきりだったわけ。それで、ウランを選ぶか南極を選ぶ かって試練はね…迷ったんですけど。基本的に大阪人根性というか、ずるいというか「何でもやったれ!」ということで、両方ともやるわけです、適当にね。
    東京人ほど純粋、一途じゃないんですかね、考え方が。大阪人が悪いと言ってるわけじゃなくってね。ボクはどうしてもそういう発想になってしまう(笑)。

Update : Jul.23,1999

ログイン