われら六稜人【第22回】ヤマに憑かれた放浪人生

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ウラン開発の興奮

    「日本でもウランの調査をしなければいけない」これを言いだしたのが、後に総理大臣となる中曽根康弘さんともう一人の若手代議士。同じような年輩の無党派 の代議士2人が「アメリカがあれだけウラン開発をやっていて、これからどうしてもウランは必要になる。だから日本国内にどれだけウランがあるか…地質を調 べるべきだ」という提案をしたんです。その時の地質学会の対応というのはね…学会というのは社会主義的発想が多いからね…一般論として「ウランを調査する なんて、以てのほかである!」ということになったんです。「原子爆弾に通じる…あれほど痛めつけられたものを、まだやる気か?中曽根、ケシカラン!」と言うことになった(笑)。ところが、中曽根さん…アッという 間に予算を通してしまうわけです。凄かったですよ、あの当時の中曽根さんって。ボクは非常に好感を持ってました。「あぁ、この男なら日本も助かるな」とも 思ったけどね。総理大臣になってからは、いまひとつパっとしなかったけどね。若い時の中曽根さんは非常に魅力的な人間だった。
    彼はアメリカなんかへ行ってね。ウラン開発の事情なんかを調べてきて、ごっつい専門家なんですよ。それが地質調査所に現れてね「お前のところでやれ」って わけ。その予算たるや…だいたい普通、調査所とかっていうのは年間予算を申請するでしょ。それが大概は減らされてくるわけ。ところがさ、この時ばかりは要 求もしていないのに「これだけ使え」って積まれたわけだから気味が悪いよね。
    結局、調査所でもすったもんだして「やるべきである」と「断るべきである」の二つに分かれてしまって、それで組合運動まで起こったんだから。ボクは賛成派 だったけどね。原子力(爆弾)に通じるかどうかは後の問題であって、日本国内にウランがあるかどうか…っていうのを調べるのは日本の地質調査所の任務であ ろう。少なくとも「あるか/ないか」っていうことは、調べなアカンというのがボクの考え方だった。しかし一般論としては、それが戦争に通じるから「やるの は良くない」というのがその当時からあったんですよ。

    その年の地質学会は秋田で年次総会が開かれて「政府のウラン予算に参画する地質学会員は除名」という声明まで発表した。そういうムードだったね。その時か ら日本国内におけるウラン開発というのは…広島/長崎の体験があるだけに…非常にこだわってるんですね。これを未だに解決していない。精神的なこだわりが 非常に多いんだけど…もうちょっと上手にやるべきだと僕は思うんですけどね。

    そのウラン調査のおかげで(?)、大型コンピュータが導入された。ある種のボクの夢だったね(笑)。3部屋くらいをブチ抜きで改装して、でっかい部屋を 作ってね。空調は効いているわ…そこに入るには靴を脱いでスリッパを履けっちゅうんですよ。白衣着て入れと(笑)。もう大変なものでした。
    今みたいに、小さい3.5インチのフロッピーなんかありませんでしたからね。でっかいテープがギギィーッて回ってるの。当時は紙パンチから磁気テープに移 行する頃でね。とにかく巨大なおもちゃだった、今と比べるとね(笑)。でも、それがとても高価なものだったから、なかなか買えませんでしたよ。それが今、 個人のテーブルの上にのるなんて、当時は思いもしませんでしたよ。

    さぁ、現地調査。ボクはその頃、若手の最前線にいましたからね。ジープを買ってもらい、岡山から鳥取までセスナで飛ぼうってことになった。アメリカでやっ てることが日本でできないことないだろう…って、民間の航空会社に相談したら「やったことないんですけど」と言われた。第一号ですね。
    音頭取りは片山さんという部長だった。ガイガーカウンタっていう計測装置を買ってきて…指向性を持たせるために2cmくらいの鉛の板で巻くんです。それに 上からベルトをかけてね。「お前、若いから持て」っちゅーわけですよ(笑)。それが重いの!それをセスナに乗せてね。モニターがあってそこに映るように なってた。これが最前線のウラン調査だと言ってね(笑)。

    それをやってると、人形峠あたりにあるっていうことがだんだん分かってくるんです。3、4回は飛びましたね。予算は結構あるわけだ。中曽根さんがくれたから。
    ある日、調査中に小包が届いたんです。開けて見ると真っ赤な粘土が入ってた。アメリカ帰りの(日系二世の)パイロットからのもので…結局、彼はあとでウラ ン会社を興して有名になった人なんですが…彼は以前から個人で(!)、日本のウラン探しをやっていたんです。その人が「これを調べてくれ」といって送って きた赤粘土…その中身は今までボクらが考えてきた鉱物のタイプと全く違う、粘土質の塊だった。それにガイガーカウンタを当ててみると、ガーッと反応して鳴 るんですよ。

    それを受けたのが東郷さんといって後にウラン開発(株)を興した人ですけどね。「すげーな。これ、どっから来てんやろ」って言って。分析依頼書には産地な どを書く欄があるんだけど、記入はない。「産地はどこですか」と問うと「それは言えない」と言うんだよね(笑)。「じゃあ、分析できない」と言って2、3 日ほったらかしにしておいたんだけどね。
    東郷さんが「だいたい分かったゾ」って言うの。郵便で送ってきたからね。鳥取県三朝【みささ】局の消印があったんですよ。そこは正にボクらが注目していたポイントの一つだった。それで「三朝へ行けー!」と急遽、出張命令が出ました(笑)。

    三朝温泉に泊まり込んで調べたんです。三朝には小鴨という小さな鉱山があって、昔からラジウムが出るといわれていた。その辺りがガリガリ鳴るというので、 くまなく調べたんです。そしたらある日の夕方、三朝の峠をジープで走ってたら、ガリガリと鳴るじゃないですか。周囲を懸命に探しましてね。それが新しい 「人形峠タイプ」と呼ばれるウランで、池に解けて沈殿したものだったのです。これが後にカナダでのウラン探査に役立つんですけどね。
    今までのタイプは「ベイン(脈)タイプ」といって鉱山を掘って行って、ウランの鉱脈を探しだして、そこからウランを産出する方法だった。もう一つはアメリカなどの古い地層で、その中で特定の層だけが含ウランであるとかね。ところが日本のウランはもっと新しいんですね。
    ウランというのは、例えば花崗岩やいろんな岩に散らばって存在するんです。岩石が崩れた時に、水と一緒に解けて川になって流れ、池に泥と一緒に沈殿するん ですね。それが干上がった場合に、層となって堆積するわけ。だから粘土みたいなタイプはまだ岩石になっていない…固まっていないものなんです。その小包の ウランがそういうタイプのものであることが、だいたい分かってきた。当時はそんなことは本にも書いてないし、誰も知らなかったんですがね。

Update : Jul.23,1999

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