われら六稜人【第21回】「すばる」の中のもうひとつの宇宙

1億光年
数学は好きだったけど…

    小学2年生(1956年)ころ?
    たぶん父母の郷里(石川県小松市)
    に帰省したときに撮ったもの。
    後ろは弟。

    小さい頃から、天文には一応興味はあったのですが、小学校の時買ってもらった望遠鏡で、木星を一、二度覗いたことがある程度です。むしろSFが好きでず いぶん読みました。それに、天文や宇宙についての本は、図書館から借りてきて結構読んではいました。ですが、天文学を職業にするという覚悟などあったわけ ではないのです。中学時代に関連する印象深いことをひとつ。大学での最初の夏休みに、突然、中学の同級生から電話で、「おい、家、あしたから八丈島行くからついてこ い!」っていうんですよ。実は中学三年の時、新卒の熱血先生が来られて、色々事件もありましたが、その先生を中心にクラスがとても仲よく団結したんです。 もちろん結構な悪ガキもいましたが。電話をかけてきたのはその悪ガキの大将だったんです。そのガキ大将が中学の先生と一緒に八丈島に行くという話で、それ では行こうと、八丈島冒険旅行をした覚えがあります。その先生とはいまだに毎年のようにお会いしています。

    北野では、担任は1年が生物の浅井先生、2年は体育の須原先生、3年は倫理の足立先生、今確かオーストラリアに移住されたとうかがっています。須原先生とは卒業後も何度かお会いして、一度お宅にも泊めていただいたこともあります。クラブはESSに入りました。ぼくの同期では女性が4人、男性がぼくを含めて2名の6人だったです。校舎の裏に小さい部室ありましたよね、そこで英語を 一生懸命勉強、というよりは思春期で女性もいておしゃべりしたり、ハイキングに行ったりとか、そんな感じだったような気がします。イングリッシュ・スピー キング・コンテストというのがあって確か1回出たような気がしますが、今から思うとほんと、冷や汗ものでした。

    2年生の時のESS文化祭。ジョージ・ワシントンの英語劇の扮装

    文化祭でESSの活動として英語劇をやりました。ジョージ・ワシントンの劇だったと思います。ぼくが白いカツラかなんかで、下手な英語をしゃべって、し かも歌まで歌う場面があって。“I HAVE OFTEN WALKED DOWN THE STREET BEFORE~”っていう歌をスピーカーで流 して、それに合わせて、口開けてればいいということだったのです。それで、一緒に歌ってたら、なぜかボリュームがあまり上がっていなかったのです。ぼくは 気が付かなくて歌っていたんですよ。そしたら「ひとりで歌ってたぞ」って言われて。そうだったのかなって…

    勉強面では、北野時代3年間、粟井先生のカリスマ性に惹かれたのかも知れないけど、勉強時間の6割ぐらいは数学をやっていた気がします。ほかに英語を ちょっとやって、理科とか社会とかは試験の前にあわててやるくらいだったように記憶しています。数学はあの当時、数研のチャート式数学って言うのがあっ て、粟井さんはI、II、III全部夏休みにやれと言われて。自分でもそう思って、一生懸命数学の問題と取り組みました。結構、解けたんでその意味で楽し く勉強しました。

    ぼくの高校生活でちょっと変わったところと言えば、2年の時に親が東京に転勤になり、1年間下宿して北野に通ったことです。3畳間で机があって本箱が あって万年ふとんがあるともう畳が見えないと言う、そういうところで1年間過ごしました。下宿生活ではラジオの深夜放送をよく聞きました。笑福亭仁鶴の ディスクジョッキーで、火曜日だったかな、2時とか3時まで聞き居眠りしながら勉強して、翌日はよく授業中にこっくりこっくりして。似たような人が何人か いたような気がします。

    こうした話が続きますと、高校生活としては勉強ばっかりしていたと思われそうですが、先ほどのESSの部活だとか、北野の生活を通じてできた友達は、今 でもぼくのなかでずいぶん大きな位置を占めています。大学に入っても、文科・理科を問わず、同期の人とは何らかの形でつながりのある人が多かったですし、 今でもおつきあいがあります。

Update : Jun.23,1999

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