われら六稜人【第20回】数奇なる強運弁護士の半生

旧友、植田義男

第5法廷
男は学問?!

    さて…学校を辞めても、行くところは無いし…家に帰れば帰ったで母は泣いてばかり。「そうや、禅寺の坊主になろう」咄嗟に私はそんな考えが頭をよぎりまし た。知り合いに禅宗の坊さんがいたのです。それで宇治の黄檗宗『万福寺』へ押し掛け…留守の住職を待たせて貰うことにしました。ところが、待てど暮らせ ど…当の住職は一向に帰る気配がありません。
    「せがれが来ても相手にしないでくれ」
    どうやら、既に父の手が回っていたようでした。私は、他に行くところもなく、幼い頃育った安樂川村の母の実家に身を寄せることにしました。しばらくして、そこへ52期の植田義男がやって来て「津田よ。こんなところにずっとおる心算か。百姓になると言うても、お前は『肥たご』すらようかつがんやろ。男は学問や」そう言って一晩中、説教されました。「今からでもいいから高等学校、受けろ」。
    言われて勉強を始め、「一番易しい高等学校はどこや?」と探して、北は青森の弘前高校から南は高知の高校と、試験は受けたものの、案の定、不合格。この間 ずっと植田がついて回ってくれていたのですが、どうやらこれは母の差し金のようでした。さらに母は「高等学校は難しいだろう…」と先読みして、植田と相談 のうえ秘かに中央大学の予科の受験手続きまで取ってくれていたのです。「中央大学は弁護士を多く輩出している名門だ…」と聞かされて一路、東京へ。今度は 兄が…私がどこかに逃げてしまわないように、つきっきりで受験することになりました。そして見事、中央大学に合格できたのです。高等学校に比べて随分易し かったのは事実ですが…(笑)。

    中央大学の予科では成績優秀でした。ところが、昭和18年法学部の2回生の時に文科系の学生に対する徴兵猶予の制度が廃止され召集令状1本で海軍に入り、 大竹海兵団から武山の海軍予備学生学生隊に入隊、極めて短期間の士官教育を受けたうえ、戦場へ行くことになったのです。時局は大学生をも戦場へ送り込まね ばならないまでに追い詰められていました。

Update :May.23,1999

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