われら六稜人【第20回】数奇なる強運弁護士の半生

※先代より守り伝える事務所の看板

第2法廷

運命の出逢い

    親父の仕事柄…家は赤レンガの大阪地裁・高裁から2,3分の場所にありました。北野に入ってからは甲子園に別邸を建てたので、そこから通いましたが…西天満小学校から北野中学を受けた5人のうち3人が通り、その3人とも全員が弁護士の息子でした(笑)。1番優秀だったのは関谷。この人は卒業してすぐ結核で亡くなった。2番目が私で、この通りいまだにピンピン…元気で生きている。3番が緒方で、彼は戦闘機で突っ込み戦死しました。

    北野に入学した時は、それは嬉しかったですね。六稜の星のマークに白い1本線のはいった帽子、それから白い、巻脚絆でなくてボタンのついたスマートな奴を 履いて。肩から横にかけるかばんにも一本線と六稜の徽章がついていて…それが格好よかったんです。昭和8年。ちょうど日本が国際連盟を脱退して世間が沸き 返っていた頃です。その頃…六稜の大先輩で植田謙吉将軍(5期)という方がいまして、幕僚を従えて北野に講演に来られたことがありました。

    「植田将軍は、今の日本を背負っていらっしゃる方です。将軍は北野で2回落第し、3回目は都合によりお辞めになりましたが…ずいぶん立派な人ですから、心 して講演を拝聴するように!」…当時、図画の先生だった中村堯興先生はそう言いました。そして廊下を歩いていたら偶然、その植田将軍が向こうから歩いて来 られるのに擦れ違ったのです。将軍は上海で爆弾を投ぜられて怪我した右足を引きずりながら歩いてました。目線が合ったので軽く頭を下げておじぎをすると、 将軍はにこっと笑って会釈をしてくれました。その時、私の体には一条の電気が走ったようでした。将軍の後ろ姿を見送りながら「ボクもこういう立派な人にな らなあかん…」何となくそういう気がしたのです。その後の講演でどんな話されたのかは憶えていません。

    その翌年…2年生で、私も最初の落第をする運命に遭遇しました。まさか…この北野で、植田将軍と同じ人生を歩むことになるとは…その時は思いもしなかったのです。

Update :May.23,1999

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