われら六稜人【第18回】もうひとつの甲子園

第2版
史実と真実のハザマで…田村校長秘話

    北野の歴史でね…田村清三郎いう評判の悪い校長がおられる。恩師に向かって悪口いうのも甚だ失礼な話やけど。リベラルな北野にあって、戦争を礼讃した唯一 の汚点…軍国主義者というような言われ方でね。ところが、それが果たして真実かどうか。人間っていうのはその立場立場で考えが変わるからね。ぼく、田村さ んについては他人事ではないと思ってね。まさにあの時代を生きた歴史の証人として、言っておきたい。彼が一生懸命にやった功績を、時代の流れの中で無にし てしまうというのは…自分を美化するために人をこき降ろすというのは、ぼく「チョットいかんのやないか、北野の人はヒドイよ」実は、そう思ってるからね。
    確かに戦争というものが忌まわしいものであったことは事実。ただその時はね、その当時ぼくらは「忌まわしい」と思ったらいかんかった。大東亜共栄圏のため に頑張るべし…というようなことをやってたワケ。当時はね。今では考えられんと思うけど…本当にね。一日にご飯を腹一杯食べれる人はおらんかった。それこ そトウモロコシやナンキンとかね、サツマイモの茎まで食べてやってる…世の中がもう、そういう時代だった。
    ぼくら58期は、2年生で大東亜戦争が始まって5年生で終戦の年…まるまる戦争の間、北野中学にどっぷりおったわけです。その中では動員先の軍需工場で直 接焼夷弾にあたって死んだ村川君みたいな犠牲者もおるけど、幸い命は助かった。やってることは平時の中学生活と同じようなことだったし、北野中学やからと いって恥ずかしいことは一つもなかった。そら、十人十色でいろんな想いがあったと思う…けど、ぼくは田村さんが北野中学に汚点を付けたとは思ってない。む しろ、まったくその逆じゃないか、と。

    国民皆兵といわれた時代、世の中のよその学校では「あぁ紅の血は燃ゆる」といってたワケ。こんな唄知らんでしょ?「花もつぼみの若桜。五尺の命ひっさげ て、国の大事に殉ずるは我ら学徒の面目ぞ。あぁ紅の血は燃ゆる~」そう高らかに歌いながら歩いていた。「後に続けと兄の声。今こそ筆を投げ捨てて、勝利ゆ るがぬ生産に勇み立ちたるつわものぞ。あぁ紅の血は燃ゆる~」とね。それが近所の市岡中学やとか浪速商業に至るまで、皆そうしてやってた中で不思議と北野 中学だけは全然なし。「何が何だか分からない、ギョロのすることわからない。今日も朝から長話、北中の面目丸つぶれ~」そんなコト言うてたくらいで…全然 違うよね、あははははー。

    「ギョロ」いうのは田村校長のあだ名。毎朝、早くから校庭に生徒集めて精神訓話を垂れるのが日課だった。前校長の長坂先生が「良書を読み、人格を磨け」と 説いていたのと対照的に、軍人勅語と教育勅語を下敷きにしていて。もっとも、それも立派なハナシだったけど、ぼくら自分の勉強や好きなことする時間が無く なるものだから…長い話されたら嫌でね。だから「あの人は軍国主義でいかん」と今も話の種に面白がって言ってるけども、もし田村校長がおらんかったら…他 の中学とあんまり足並みが揃わなくなるんで、北野中学が非難されてたかも判らん。時代がそういう時代やった…日本中が軍国主義に染まっていたからね。白い シーツに醤油をこぼしたわけじゃない、醤油の中に醤油を落としたんだから。落とさないかんヤツをね。
    その頃、ぼくら白いゲートル巻いて登校してた。これも本当はやめないかんかったけど…田村さん、そんなコトは一言も言わなかった。それで自分一人で国民服 を着てね…外面を合わすことで「北野」いう温室を守っていたような気がする。英語だって、そう。敵国語だよね、そんなもん。よその中学では教練と振り替え になったり、ろくに勉強なんかさせてない。そんな時に田村校長がどう言ったか。「君たちは将来、指導者になる。指導者というのは世界の情勢とか時代の流れ とか…時局認識ができないといけない」そういって、こっそり英語の授業を温存していた。

    口では「勉強せぇ」とは一言も言わないで、校歌を引用して「大東の邦の運命、青春の肩にかかれり」とか…長い朝礼して「忠節・礼儀・武勇・信義・質素…」 ばっかり唱えてた。聞いてるほうは…みんな耳が痛いことばっかりで。むしろ「勉強せぇ」と言われてるほうが楽な人ばっかりやから(笑)。一方で、外から顰 蹙を買うことのないように、独り悪者になって(?)踏ん張った校長と、もう一方で「あんなもん朝から話されて困る、軍国主義や何やかんや言うて、けしから ん」そういうて、言うこときかんかった生徒とか、足引っ張った先生とか…それら総和としての北野の「良識」のバランスというものが、世間から孤立すること もなく、北野中学が立派にやって行けた理由や、とぼくは思う。

    これはハッキリした歴史が物語っているんだけど…北野中学でも軍隊に行かねばならないという義務を負っていた。ところが、何人か義務づけられていたが誰も 志願者がいない。士官学校、兵学校の志願は一杯いたんだけどね。ただ単に「醜の御楯」になるよりは、頭使って難関突破して士官学校に入ろう、上級職を目指 そう…そういう人のほうが多かったように思う。
    それで結局、先生の手で8人を選抜した。8人が予科練を受けたんです。そのうち学科試験で3人すべり、2次試験で2人すべった。残ったのが3人。ぼくの同 期では、この3人が…涙ながらに予科練に行った。立派な男ですよ、それは。市岡中学なんか何十人か受けて全員が合格してる。北野は「わざとすべったんじゃ ないか」と思うよね、誰が考えても。
    事実、その子ら…後でしっかり高等学校に受かってるからね(笑)。そういう状態だったけれども、それに対して他からは一言も文句は出なかった。多分にそれ は校長先生が軍国主義で頑張ってくれてたからじゃないかな。もし、田村さんがおらへんかったら「なんや、北野は!」ということになってたかも分からん。

    卒業後のことは知る由もないが…終戦を迎えて、田村校長は島根師範学校に転任されたとのこと。訪ねて行った同級生から「明るくお元気であった」と聞いて、 北野在任当時の国民服姿が彷佛と浮かび、ぼくは思わず微笑んだ。毀誉褒貶の中、北野中学の歴史の一ページを飾られた方だと今も懐かしく想い出すんだ。

Update : Mar.23,1999

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