われら六稜人【第13回】建築家の跳躍力

1階
バスケに明け暮れた青春

    生まれは豊中です。幼稚園の頃にちょっとだけ…2年間くらいかな…東京の荻窪にいまして、そのあと住之江の大和川の辺りで半年くらい。そしてまた豊中に 戻ってきて、梅花幼稚園に半年だけ通いまして、豊中市立大池小学校に入学しました。父も母も大池小学校の出で、僕もそう。そして今も豊中に住んでますか ら、僕の3人の子供たちも…実は親子3代にわたってみな大池小学校に通ってるんですね。それから…当時は豊中2中が校区だったんで豊中2中。そして北野ですね。2中の頃からバスケットボールを始めてまして、北野でもバスケットボール部に入り ました。中学の時は背も低かったし「へたくそ」だったんで…あまり真面目な部員じゃなかったんですが、3年間で背が30センチくらい伸びまして…高校に 入ってからは割と真剣にバスケに取り組みましたよ。

    ちょうど僕が北野に入ってしばらくした頃、バスケットボール部ではOBたちの間で「梃入れをしよう」という決断が下っったようで、コーチが来て下さるよう になったんです。稲本さんとおっしゃる方で、蝶理のアパレルサービスに勤務されてました。実は、そのコーチが一昨日、急に癌で亡くなりましてね。65歳で すか…。卒業後も大変お世話になっているんで、明後日のお通夜、告別式に東京まで行くんですけど…ともかくこの稲本さんをヘッドコーチとして、OBの方た ちのバックアップ体制がすごくて…ひたすらバスケットボールをやらざるを得なかった。

    そのおかげで…それこそ中学の時のバスケットボールと言えば、何というか…無意識ながら半強制的な義務感のようなものに支配されて練習していたような気が しますが、高校で初めて「自覚」して自ら求めて練習できるようになって…。自分で言うのも何ですが、ずいぶん好プレーヤーに成長したと思いますし、北野も その頃ずいぶん強くなったと思います。

    そういうわけで基本的にはひたすらバスケットをやっていたんですが、もうひとつ、美術部の部長というのもやってました。

    当時、美術の先生は小林陸一郎という方で…現在は精華大の先生だそうで、後から「凄いアーティストやった」ということを知ったんですけど…ともかく、1年の芸術科目で美術を選択したものですから、この小林先生に習うことになった。
    その頃、美術部に僕の中学の時の同級生が2人いまして…文化部の中でも存亡の危機に立たされていたんですね。それで僕にも参加してくれ…ということで美術部の活動にも参画していたんです。
    それで例えば、体育祭とか文化祭とか…そういったいろんな催しのタテカンを描いたり、講演会のパンフの表紙を作ったり。先日、僕が表紙を描いた「手塚治虫 さんが講演に来られた時の文化祭のパンフレット」がひょっこり出てきて「あぁ、そうやったな」と思い出したんですが…そんなことをやってたように思いま す。

    もともと絵を描くことが好きだったので…だからこそ建築へ行ったんですが…でも、やっぱりメインはバスケットボールでしたね。朝から晩までバスケに明け暮れる毎日で…その意味では、なかなか充実した高校生活(バスケットボール生活?)を送れたなと思っています。

Update : Oct.23,1998

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