【第139回】2016年4月2日(土)「難波宮はどこまで姿をあらわしたのか?」

sakaehara77aaaaaTR139-Sakaehara-DSC01376TR139-Sakaehara-77ki-DSC01378栄原永遠男さん@77期(大阪歴史博物館 館長・大阪市大 名誉教授・東大寺史研 究所所長)

77期 同期の方からの、感想文を最下段に入れました。

 

 

 

 

 

 

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『 難波宮はどこまで姿をあらわしたのか? 』
概要

古代、上町台地の東には、生駒山地まで続く「河内湖」と呼ばれる湿地が広がっていた。この湿地の西端は、大阪湾から運ばれる砂と淀川の三角州によって海への出口がふさがれることが多く、たびたび氾濫を起こした。しかし倭の五王の時代に大阪湾への流路が開削され、水路の確保と治水ができるようになり、難波の重要性が高まったのである。
難波宮はこの上町台地の上に築かれたが、前期と後期の2つの宮がほぼ同じ場所に建てられていた。幻といわれた前期難波宮の存在を実証したのが山根徳太郎博士(23期)である。
前期難波宮は、中央地区と東方・西方地区の3つに区分される。中央地区には、北から内裏・大極殿と2つの八角殿。その南には16の朝堂が並ぶ広い朝堂院があり、ここで官僚は朝賀や政務を行った。この中央地区を挟んで西方地区には、倉庫群や管理棟、水を確保する水利施設があった。また東方地区には、役所・倉庫などが建っているエリアに続いて、周囲を五間門で囲まれた格の高い四面庇の建物(用途はまだ不明)のエリアがあり、ここは石敷舗装がなされていた。しかし天武15年(686)の火災で、中央地区と西方地区の大部分は消滅してしまう。けれども当時の建物が掘立柱工法であった為、その穴の痕跡から前期難波宮の建物配置や構造をうかがい知ることができた。東方地区は火災を免れたが、役所周辺の塀は回廊に建て替えられている。しかしこの建て替えが火災の前に行われたのか、火災後に行われたのかは不明である。
前期難波宮が作られた時期については、①大化改新の頃(652)とする説と、②天武天皇が都を複数作る複都制の命令を出した時とする2つの説があった。②の根拠として考えられたのは、まず都の規模が大化改新前後の飛鳥板葺宮や飛鳥浄御原宮よりも格段に大きく、藤原京や平城京の規模に近かったこと。また官僚機構についても、官僚が仕事をする朝堂院には16の朝堂が建てられており、推古朝で決められた「冠位十二階」の区分よりもはるかに官僚機構が充実していることが伺えたからである。都の規模や、朝堂が多数建てられていたことが、②と考える根拠となり、前期難波宮の成立時期について、①②の論争が続いていた。
しかし大阪府警本部地下の発掘調査の際に、上町台地の北溝に放棄された木簡に「戊申年(648)」の文字が書かれていた事などから、前期難波宮は①の大化改新ごろに造られたことが明らかになった。前期難波宮とされる難波長柄豊崎宮は652年に完成し、火災のあった天武15年(686)までの34年間、宮として存在したことが実証された。
以上の事から改めて難波宮を見てみると、大化改新により蘇我氏から権力を奪還し、理想にもえて造られた難波宮であった。宮の規模も前後の宮とは比較にならないほど大きかった。しかし立派な役所の建物(朝堂)は先行して出来ていたようであるが、官僚の組織化については、冠位の改変を何度も行ったり、中国風の役職名を付けたもののまだまだ未熟であり、官僚の養成が追い付いていないのが実情だったようだ。官僚の官職と冠(官)位が整うのは、683年の飛鳥浄御原令以降であった。
後期難波宮は聖武天皇によって726年に工事が開始された。聖武は藤原氏の血統を受け継ぐ初めての天皇だったので官僚の反発も大きく、先ず官僚や人心を掌握する必要があった。そのため、聖武は曾祖母(持統)の父中大兄が白村江の戦いに赴く際に、皇位継承の祝歌を詠んだ明石の西「印南野」に自らも行幸し、天智の血統を受け継ぐ正統な後継者であることを示した。そして即位3年目、天武の正統な後継者でもあることを示すため、天武が行おうとしていた複都制を実行するため「知造難波宮事」を任命し、難波宮造営に着手したのである。
後期難波宮は、前期とほぼ同じ位置に建てられた。その特徴は、大きな基壇の上に礎石を置きその上に柱を立てる構造で、屋根は瓦葺きであった。この後期の建物は、まず中央地区に内裏が、西地区に格の高い五間門が造られた。その後大極殿や8つの朝堂からなる朝堂院が建てられたが、五間門は後に改造された。大極殿の北側や朝堂院の東側に石組みの大きな溝も造られた。東地区には南北に2つのエリアが造られたことも分かっている。
しかし後期の建物は基壇の上に建てられていた為、建て替えが行われる際は地上に出ている基壇ごと撤去するので、地上に痕跡は残らない。ここが前期の柱穴の工法の遺構とは異なる点である。ただ大極殿に関しては、幸運にも階段部分を含む基壇の痕跡が残っていた為、そこから建物の柱の間隔を推定し、屋根を含む大極殿全体のイメージが復元出来たのである。聖武は何度か建て替えを命じたが、「何時」「何のために」行ったのかは明らかになっていない。「何時、何の目的で改築が行われ、どのような建物が造られたのか」という、宮の全貌を解明するのは極めて困難が多い。
持統天皇以下何人もの天皇が、この難波宮に行幸した。奈良時代までは各天皇の思い入れの多い宮であったが、786年の長岡京遷都とともに、難波宮は表舞台から姿を消してしまい、次に姿を現すのは、山根徳太郎博士の長年の努力が結実した時であった。

以上

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六稜トークリレー「難波宮はどこまで姿を現したのか?」に参加して。

第139回のトークリレーに初めて参加させて頂きました。

私の頭の中に残っていた日本史は、今をさること半世紀以上前、授業で表面をさっと掠っただけの頼りないものでした。それらは単なる年号と順番と人名だけの繋がらない言葉達でした。

古代、大阪平野がまだ形をなさず、生駒山と上町台地に囲まれた河内湖だった時代から大阪湾への水路を開削し灌漑と水利が発達し、豊かな土地が開けたこと。
その地に大化の改新の詔が出された難波の宮が造営されたこと。
その中心となったのが中大兄皇子だったこと。
その後大津京から壬申の乱を経て飛鳥浄御原宮、平城京、平安京、、、と単純に理解というよりは、覚えこみという名の知識でしかなかったのですが、このたびのトークリレーではあらすじにしっかりと分厚い血肉をつけて頂きました。
大化の改新で造られた難波宮に何故、奈良時代の聖武帝が現れるのか、不思議でしたが、難波宮が前期と後期、二度造営とされたこと、都は一時代に唯一の存在ではなく、複都制で存在したことを伺って納得できました。
何故この地名の宮があるのか不思議に思っていた「長柄・豊崎の宮」は
現在の大阪の地名とは何の関係もなく、長い柄のような地形、豊かな岬という上
町台地を表現したものであること。

聖武帝が曽祖父の天武天皇だけでなく、曾祖母方の天智天皇の正当な後継者であると証明する為に印南野に行幸したのではないかといったお話等々をわくわくしながら聞いているうちにあっという間に時間が経ってしまいました。

半世紀以上昔に頭の片隅にちょびっと残った「なぜ?」がこの年齢になって「ああ、そうだったのか?」と納得できたのはトークリレーに参加できたからこそ。そしてあの頃には無かった心と時間の余裕も充分に有ったればこそ。

充実のひと時を感謝しています。

77期同級生

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