恩師を訪ねて【第20回】

村上正己先生(2)


担任した4年生のクラス
北中玄関前にて(昭和12年)

北野は楽なところでした

    大正14年に愛知一中に赴任してから10年ばかり居ました。安達貞太校長が大阪の北野中学に赴かれることになって、送別会の時に「君を北野に呼ぶから待っ ているよう」言われたのです。それから2年経った昭和11年、約束通り北野への転任の辞令が届きました。ただ、安達校長は7年制の浪速高等学校の校長に転 任され、代わりに長坂五郎校長のもとで働くこととなりました。
    安達校長の印象としては非常に温厚な方でした。字が巧く、尺八も上手でしたね。尺八の譜を作って売り出したのは僕だと言っておられました(笑)。笙【しょ う】も達者で、なかなかの芸人でしたよ。長坂校長の印象はというと「師範臭くない先生」でしたね。教授法に関して親から注文があった時も、僕を呼んで「最 近こういうことを言うている人が居るから気を付けるように」とだけ言うような人でした。しかし北野は楽なところでした。生徒も非常におとなしくてね。愛知一中では、ちょっとヘマをすると生徒が騒いで授業にならんかった。そこで僕は体育の先生 の次いで怖いと恐れられる先生でしたからね(笑)。父兄の方々も僕がいるのを喜んでくれて「村上先生をウチの子の担任にして欲しい」と校長に掛け合う方も 居られました。
    それが北野へ来ると生徒が非常におとなしくてびっくりしましてね。北野の4年生、5年生は愛知一中の1年生くらいかな(笑)。それぐらい教室がシーンと静かで、授業がやり良かったですね。問題の一つも起こりませんでした。何の管理もする必要がなかった。

    始業時刻は夏は8時、冬は9時。とくに暑い期間はさらに早くて7時半という時もありました。これがアメリカなんかだと「夏時間」を作って時間のほうを変えるんでしょうがね。
    僕は1年生を担任しました。授業は「幾何」「代数」「三角」といろいろありました。1週2時間でクラスを3つ持つというようになっていました。全体としては18時間から20時間の受け持ちだったと思います。夏休みには生徒を連れて富士山にも登りました。

    数学主任の木村熊次郎先生は背は低いが良い喉をしていましてね。よく飲みに行きました。法善寺横町のニカクという一杯屋で、木村先生はよく歌われました。酒は美味いし、いいところへ来たなと思ったものです。
    生徒にも良くできた者がおりました。樋屋奇応丸の次男などはその典型でね。近所に住んでましたが、彼の家の便所は僕の家くらいあったりして(笑)。京大の電気科へ進学しましたかね。

    入学試験が国史1科目になったことがありました。それまでは英語、数学が重要科目だったのですがね。あの頃は日本の教育界は混乱していましたから。それで も僕がおる頃に高校への進学率が全国トップになりましてね。東京府立一中、四中、愛知一中なんかも肩を並べてよくできたライバルでした。

    聞き手●菅 正徳(69期)、壽榮松正信(74期)
    収 録●Jan.24,2000
    (京都市内のご自宅にて)

Update : Feb.23,2000

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