恩師を訪ねて【第6回】

そして、母校へ…

寺田正一郎先生

    昭和28年から45年までの15年間、北野に勤めることになりました。母校という自身の思い入れ以上に…やはり北野には特別の雰囲気がありましたよ。生 徒の反応が違うんですね。感応力とでも言うンでしょうか。学問・文化・芸術なんかを尊ぶ気持ち…学校全体がそうした学的な雰囲気を持っていました。いよいよ赴任が決まって、当時の林武雄校長にご挨拶に行った時のこと。「生徒に会う前に何かしておくことはありますか?」とお尋ねしましたら「そんなことは気にせずに、学校へ来て勉強をしてくれればよろしい」…そう、おっしゃいました。
    林校長は、戦後の、北野の教育というものをどうするか…真剣に考えておられて、先生方にはいつも「できるだけ雑用をせず、教師はまず自分が勉強をしてください」という姿勢を打ち出しておられましたね。

    15年間…実にいろんなことがありました。中でも印象深いのが、昭和31年の熱田神宮事件。69期のF君、K君が天王寺高校の友人と3人で、熱田神宮の 宝剣を盗りに入って捕まった事件です。驚くべきことに彼等は、その時すでに多田神社、談山神社などの刀を蒐めていたのです。K君の担任が私でしたから…その夏は大方その処理で潰しましたよ。同君の転校問題では走り回らされました。多田神社には雫石先生と二人で謝まりにも行きま した。あがり框に手をついて謝罪しますと、宮司さんがこれまた立派な方で「ウチにそんな宝物がおましたンかいな。聞き初めです。教えて貰うてありがとう」 と逆に礼を言われて、アッサリ許してくれました。粋なものですね。ちなみに談山神社へは長谷川先生と錦田先生がお詫びに行かれたと思います。

    世の中が動転してしまうような大事件でしたが、この時の林校長の対応にも驚かされましたね。ラジオのインタビューで「これは社会が実証主義の時代に突入 した証左である。生徒たちが実正しようとするのも無理はない。社会の罪である」と堂々と言い放ったんですね。K君は野球部のキャッチャーだったんですが、 「夏の大会の出場辞退など必要ない」とも言われました。

    人も社会も…実にスケールの大きな時代だったと思います。

    そうして昭和43年。夕陽ケ丘高校に教頭として赴任するまで、私は北野という職場で教師の醍醐味をしっかり味わせて貰いました。世間(外部)の人はどうしても誤解をしているところがあって、北野が進学校だと信じておられます。ただそれは結果がそうなるのであって、根本的に教養・文化というものを度外視して、受験のためのテクニックを養成している学校なんかではないんですね。

    今でこそ、府の要請で「教師が同じ学校に長く勤めること」ができなくなって、いわゆる名物教師と呼ばれる先生が、北野にも少なくなりました。けれど、私も北野へ赴任する際に池田高校で言われたことですが「北野で教鞭を取ることがどんなに教師冥利に尽きること」か…非常に羨ましがられましたよ。これは今でもつくづく実感しています。

    夕陽ケ丘高校でも…校長が北野の先輩でしたから、機会ある度に校長室で北野の先生のアダ名を言いあって楽しんでました。私はそのあと箕面高校へ赴き、3 年間勤めて、定年の1年前に金蘭千里高校へ行きました。校長が竹内鐵二先生で…この人も北野で校長経験のある方でしたね。金蘭では、その後、嘱託の講師も 含めて13年間お世話になりました。

    いまは、ゆっくりと毎日を楽しんでいます。ラジオの語学講座が愉しみですね。ドイツ語とフランス語を続けていますが…あれはいいですよ。あんなに安価で読みもの満載のテキストは他にないんじゃないでしょうか。それから2ケ月に一度くらいの割合で開催される「寺田古文の会」も、私のライフワークのひとつです。もうかれこれ15年になりますが、いつまでも授業が できる喜びをありがたく噛みしめています。69期を中心とするメンバーの方々には、この場を借りて御礼を申し上げたいと思います。

    最後に、私も卒業生のひとりとして同窓会の世話役をやらせて戴いたこともありますが、何となく偉いヒト達がやっている…という風でしたね。できれば若い人たちのことも考慮した運営に今後も期待したいと思っています。

    聞き手●菅 正徳(69期)、谷 卓司(98期)
    収 録●Jan.15,1998

Update : Mar.23,1998

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